NIKKI

なんかお腹痛いなぁ…って思った時に書いてるブログ

結婚とか離婚とか。

 

私事であるが、親の離婚が決まった。結婚2X年目、熟年離婚というやつだ。もうこの歳(24歳6ヶ月)になるとこんなことで別にショックとか悲しいとかいう気持ちにはならないけれど、自己投影が故に憂鬱な気分にはなる。元々母親は僕に親父と離婚したいということを2年ほど前から話していた。僕は賛成も反対もしないし、それぞれの人生なんだから勝手にすれば?という立ち位置でやってきた。そして僕の就職による経済的自立を待って、母親はついに親父に離婚を切り出した。親父も親父で僕たち家族は何十年も前から別居生活をしているので離婚したところで関係性は変わらないと思っているのか、あっさりと離婚にGOサインを出した。結局のところ、たかが紙切れ一枚と母親の苗字が変わるだけで何も僕ら3人の関係性は変わらない、というか、僕と母、僕と父の関係性は変わらないし、母と父の関係性はずっと前から終わっていたのだ。

 

 

 

これはあくまで僕の世界観の話なのだが、人生というものは常に死に向かって歩いているゲームだと思っている。どんな過程を描いたところで行き着く先は死。こればかりは変えられない。戦闘力53万のフリーザですら不老不死を手に入れるのは無理だったのだから(ゴールデン色になることはできたが)。そんなもん戦闘力5の我々がどうしようと死ぬ時は死ぬし、死ぬタイミングなんて選べやしない。朝起きて夜眠ると死に1日近いていく。このルールは全ての生き物にとって平等なのだ。

これまで僕が出会ってきた人はたくさんいるけれど、大きく分けて2パターンあると思う。ひとつは生きるために生きている人。もうひとつは少し誤解を生む表現になるかもしれないが、死ぬために生きている人。たいていの人は前者なのだが、ごくまれに後者もいる。僕が心の底から本音を話せる人はそんな人間だし、僕もそうであろうと思っている。毎日嫌なことをしてでも働いているのも、そうやって稼いだお金を貯めるのも生きていくため。じゃあなんのために生きていくのか。僕は死ぬためだと思う。逃れられない死という現象に向かって突き進むため。人為的な死ではなく、現象としての死にたどり着くため。(最近は医療の発達で現象としての死に辿り着くのが大変。だから日常生活が苦しくなるのだよ。クソが!)そしてその過程で生命のバトンを繋いでいくため。そのために人は懸命に働いたり学んだりしているのだと思う。けれども僕は人為的な死であってもいいんじゃないかとずっと前から思っている。自分が決めたゴールに向かって自分のペースで歩いていく。なにも80歳まで生きる必要なんかないと思うし、よくて50代後半までだと考えている。体が動かなくなったり、頭が働かなくなる前に自分の命を自分で終わらせればいい。誰かの足を引っ張ってまで明るくない未来に向かって歩くことの方が辛いことだと思う。自分のペースで歩く事さえできれば定年なんて制度に囚われる必要もないし、必要以上に貯金をすることもない。結婚だって世間体とか、一瞬の気持ちの高まりなんかではしないだろう。そうすることで本当に自分の生きたい人生を歩けるかはわからないけど、第三者から強制されたクソみたいな人生からはさよならすることはできるはず。だからそんなに悪いことだとは思わんのよね、自殺は。前向きであれば。

 

 

 

なぜこんなに死の話をするかというと、実は母にかなり初期のものではあるがガンが見つかったのだ。さすがに数年後に死んじゃうなんてことはないと思うけど、ガンっつーものはよくわからないので一応ある程度は僕も覚悟しとかないとな、と思っている。そしてきっとそれ以上に母は自分の死に対して向き合っているのだろう。自分の死というゴールがかすかに見え始めた母は、自分の人生を自分らしく生きていくことに決めた。だから"自分らしく"を阻害する親父を切ったのだ。ガン手術のように。そうやって母は踏ん切りをつけた。自分の人生をこれから歩いていく、やりたいことをやる。そう楽しそうに話していた。そりゃ離婚することで受けるダメージもそこそこあるだろうけど、それを楽しみが上回ったのだ。前向きな離婚だ。そして母はこれから死ぬために生きていくのだと思う。趣味のゴルフやマラソンや音楽。僕や祖母の影響で最近興味が出てきたらしい登山や野菜作りも。それなりの歳だがやれることはいっぱいあると思うし、やれるだろう。そうやって死にゆく母を僕は見届けたい。生きるために生きてきた人が死に向かって歩いた時にどれだけ人生が変わるのか知りたい。そしてそのバトンを受け継いだ僕は、僕の意思で自分の物語を書き終えたいのだ。

 

 

 

(母が僕に言った親父の悪口は数知れず。しかし親父は僕に母の悪口を一言も言わなかったのだ。)