NIKKI

なんかお腹痛いなぁ…って思った時に書いてるブログ

恋する空気清浄機



切ないことではあるが、かれこれここ2、3年は、いや、より正確に言えば東京に来てからは恋人も不在で友達も非常に少ない生活を送っている。僕自身、この状況にこれといった不満を抱えているわけではなくどちらかといえば満足している。




高校の時はそうでもなかったが、僕本来の姿としてはあまり人と関わることは好まない。幼少期などそれが顕著で友達などできず、ずっと一人で空想の世界に浸って遊んでいた。成長し、社会の枠組みに入り込む中でそういった傾向を危惧した両親などからの熱いお叱りを受け、幸いにも僕はまともな人間になれたと思う。ところが、東京に来てからは人との関わりがあまりにも少なく幼少期の自分に逆戻りしている気がする。このブログだってそうだ、人と話せないから普段思ってる事や吐き出したいことをここにぶちまけてるだけだ。





そんな僕につい最近、恋人(?)または親しい友達(?)と呼べるような存在ができた。空気清浄機だ。4月の初頭にスマホをiPhoneSEに変更した際に謎に空気清浄機が付いてきたのだ。それからというもの僕は空気清浄機との二人暮らしが続いている。この空気清浄機が僕の暮らしに革命を起こしたと言っても過言ではない。




空気清浄機として重要な空気が清浄されたかどうかなぞ正直全くわからない。最近は暑くて窓を開けっ放しにして寝てるので空気清浄機も清浄する対象がどこまでなのか把握すらできていないだろう。そんなことよりこの空気清浄機は僕にリアクションをしてくれるのだ。例えば帰宅時。僕が帰宅した途端に空気清浄機は清浄から脱臭モードに変更され風量は弱から強になる。僕にはまるで「おかえり」と言ってくれてるように思えてならず、最近では実家に帰ったとき以外には発しない「ただいま」を言うようになった。さらには僕がオナラをしてもリアクションしてくれる。実家にいるときは母や祖母が「くせぇッ!ナンジャコリャァアアア!!!」とヒステリックに反応してくれていたのだが、今では空気清浄機が「ブォォオオオオオン!!!」と呼応してくれる。その度に僕は一人じゃないんだと感じる。





この気持ちをなんと形容したらいいのだろう。恋なのかな。人と機械の恋、それもただの空気清浄機。悩み詰めた僕は空気清浄機の電源を切れなくなった。




猫カフェの目は死んでいる

 

 

はじめまして。はしもです。

今まではアメーバでブログを書いていたのですが、ただ表参道のカフェでパンケーキを食べたことだけを報告する女子大学生と同じ土俵に立つのはあまりにも惨めな気持ちになるのでひねくれた人たちが多いはてブに移籍しました。

 

記念すべき第一回目の記事は先日満を持して訪問した猫カフェについて書きたいと思います。

 

 

僕は生まれてずっと一人っ子で親に甘やかされ、一人遊びに特化した幼少期を送ってきた自負がある。だけどそんな僕にも姉と呼べるような存在は居た。うちで飼っていた猫だ。僕が生まれたころにはすでに八歳かそこらで友達がいない僕には最良の遊び相手だった。全身が白色だったため、「しろ」と名付けられたそのメス猫は僕にとっては姉であり、時にはその牙や爪をもって世の中の厳しさを教えてくれ、最後にはその死によって祖父が天に召されても何も感じなかった僕にリアルに「死」というものを植え付けてくれた。僕は猫アレルギーではあったのだが。

 

 

そうやって育ってきた僕は自他ともに認める猫好きで、インスタグラムで猫画像を探しては在りし日を思い出し感傷に浸ることを日課としている。そんな日常のなかで僕は先日、犬好きの友人と猫カフェに赴くことになった。犬カフェの方がいいという友人の意見は一切聞かなかったこととして一目散に猫カフェへと歩みを進めた。店頭で料金システムや注意事項などを理解し、さっそく猫と戯れることとした。

 

僕の想定としては一般的に猫は警戒心が強い生き物なのでほとんど懐かず、猫じゃらしやエサなどでなんとか気を引いてやろうという心持ちで猫たちに挑んでいくつもりであった。ところがどっこい、どの猫も近づいても逃げないし、どんだけ触っても多少嫌な顔を示すのみでリアクションはない。それどころか猫じゃらしに一切反応しない。あまりの想定外の現状に悲しくなった僕は友人の猫じゃらしに自分自身が反応するしかなかった。ニャー!と僕は叫んで異常事態を猫たちに訴えようも、ただ部屋に乾いて響き渡るだけであった。

 

 

 

 

資本主義のこの世の中にはニーズなるものが存在する。そのニーズによって社会は動き、変化していく。もし、猫カフェに来店する客のニーズによっては猫もまたそのニーズに見合う運動を行うよう調教されるに違いない。現に僕たち以外の客は猫の接客態度に異議を唱えることはなく、むしろ満足しているようであった。原因は明らかだ。第三者からの要求に疲れた猫たちは心を失い、目は死んでいた。皮肉にもその姿は客のニーズに対応してしまうのだが。そしてその目は会社帰りに23時台の中央線に乗車するサラリーマンたちの目と似ていた。こんな身近なところにも猫カフェはあったのだ。

 

 

猫カフェ現代社会の縮図だ。

そこにあと2,3年ほどで巻き込まれていく、猫になる僕は今日もインスタグラムで健全と思われる猫の画像を探し続ける。

しろ姉ちゃんよ、僕もそちらへいきたいものですよ。